第五章 歪む笑顔 13

 雨は痩せた木の板で葺かれた屋根の隙間から染み込み、ぽたりぽたりと足元に水溜りを作った。そこへ流れ込んだ赤いものが、ジワリと触手を伸ばし交じり合ってゆく。
 その小屋の中でアスベリアは血でぎらつく短剣を握ったまま足元の物言わぬ肉体を見下ろしていた。
 シラーグだ。
 アスベリアが小屋の入り口に姿を現したとき、全てを承知したかのようにシラーグはアスベリアに頷いた。最後まで抵抗することなく、じっと眼を閉じ、静かに自分の運命を受け入れた。その決然とした姿勢は、アスベリアには到底真似できない高潔さと威厳があった。
「それでいいんだ、アスベリア……」
 アスベリアに倒れ掛かったシラーグが息を引き取る瞬間に耳元でそう呟いた。
「なんで!アスがそんなことするの!?」
 ルーヤは小屋の片隅で両手で顔を覆いうずくまっていた。
「これが、影武者の使命だからだ」
 そんなことを聞きたかったわけではないだろう。アスベリアは自分自身への言い訳を探していた。シラーグに許されても、アスベリアの気持ちはじくじくとした汚泥のような闇が渦巻いていた。
「これが、アスのしたかったこと?」
 殴られて青黒く腫れた顔が、アスベリアを見上げる。ルーヤは泣いてはいなかった。ただ、シラーグと同じ、己の運命を知ったものの明決な意思が宿る瞳が、アスベリアと同じ琥珀色をした大きな瞳がじっとアスベリアを見据えていた。
「この村を出て、それで手にしたかったものなの?自分まで裏切るの?自由になれないの?」
 ルーヤは微笑んだ。もうわかっているのだ。アスベリアがなぜここに来たのかを。
「ごめん……、こんなこと、アスだって辛いはずだよね」
 ――いっそうのこと、罵ってくれればいいのに。
 アスベリアは泣きそうになる。奥歯をかんで耐えたが、涙が溢れ出るのを止めることはできなかった。
 ――お前まで、オレを許そうとするな。
 裏切り者だと、嘘吐きだと、声を限りに叫んでほしかった。殴りかかって嫌いだと言ってほしい。約束を守れない酷い男だと、お前なんか見限(みかぎ)ったと。この短剣を奪い取り、この身体に突き立てればいいのに。
 しかし、そんな希望とは裏腹に、ルーヤはゆっくりと体を起こしアスベリアに向かって両手を差し出した。
「おいおい、食料庫のなかで殺すなよ。後始末が大変だろう」
 戸口で見張っていた兵士が苦笑する。アスベリアはルーヤの手を取り抱き起こすと、雨が激しく大地を叩く外へと連れ出した。唇をかみ締め、細くか弱い身体を抱きしめる。
「私、ずっと……アスにこうしてほしかったの。ずっと待ってた」
 降りしきる雨からルーヤの身体を守るように、アスベリアは腕に力を込めた。
「ありがとう、泣いてくれて」
 アスベリアは首を振る。
 ――お願いだ!オレを傷つけてくれ!
「ありがとう、アスの手で死ねるならうれしい……」
 ルーヤの可愛らしい笑顔が、昔のままそこにあった。髪から滴り落ちるしずくが、ルーヤの顔にいく筋もの流れを作り、悲しそうな輪郭を作っているのに、ルーヤは幸せそうな笑顔でアスベリアを見上げている。
「ルーヤ、オレと……!」
 ――逃げよう。
 そう言おうとした。しかし、その言葉はルーヤの唇で封じられてしまった。柔らかくふわりとした感触が、アスベリアの気持ちを拒絶する。
「だめ、それはアスベリアが望んでいることじゃないもの」
 ――俺が望んでいることって、何だったんだ?
「だめだよ……」
「ごめんな、ルーヤ。……オレ、うまくできないかもしれない」
 唇を寄せるとき、アスベリアはそっと呟いた。唇は涙の味がした。
 生きている音がすぐそばで聞こえる。ルーヤの鼓動がアスベリアの胸に伝わってきた。腕の中のルーヤは、幻かと思えるほど儚く、こんな幸せは二度と訪れはしないだろうと思うほどに愛おしかった。
 脳裏に蘇るルーヤの思い出は甘い香りを漂わせる。農作業であかぎれて血の滲んだ手に、薬を塗ってやりながら交わした約束。二人が最も幸せだったあの頃。
 ――お互いが死を迎えるときは共にいよう。痛みだって二人で分かち合って、幸せも辛さも二人で一緒に……。
 最後の最後まで、ルーヤの喜びも辛さも痛みも分け合うことが出来ない。約束を守ることが出来ない。
 ――この口づけが、身を引き裂くほど痛ければよかったのに。忘れられない身体の傷になり刻まれればよかったのに。なのに、なぜ……。今になってこんなにも愛おしさだけが……。
 ルーヤの唇が歪み、身体の力が抜けていくのを、アスベリアは全身で感じていた。せめて、その瞬間だけでも受け止めたかった。唇が離れてゆく。
 ――行かないでくれ!
 アスベリアは心の中で哀願した。
 ――たのむ!オレを置いていかないで。ひとりになりたくないんだ!
 ルーヤの微かな振るえが止まる。がくりと折れた首が眩しいくらいに白かった。唇からあふれ出した血が、ルーヤの涙に見える。
「ルーヤ……」
 アスベリアはルーヤの背中に突き立てた短剣を地面に投げ捨てた。泥沼と化した地面に膝を折り、強くその身体を抱きしめる。
「ルーヤ……!」
 ――もう、オレの名を呼んでくれないのか。


「そうか、始末をつけてきたか。それがぬしの決心の表れだととってもいいんだな」
「……ああ」
 アスベリアは豪華な食事が並べられた敷物の前に、胡坐をかいて座っていた。ルーヤのぬくもりもまだ手のひらから消えぬというのに、こんな食事を口に運んでいるなんて、なんて図々しい。感情を表さない表向きの表情の裏で、アスベリアは己を激しく恥じた。
「さあ、飲め!明日はここに援軍が来る。合流したらすぐにカリシアに向かうぞ」
 サズルは楽しそうに飲み続けていた。豪傑たる由縁か、コドリスの兵士たちにも惜しげもなく酒を振舞い、飲め、騒げと陽気に歌まで唄っている。アスベリアはそんなサズルに合わせ相槌を打ったり、馬鹿に笑ったりした。
 もう、自分が何に突き動かされているのかわからない。心にぽっかりと穴が開いたような、空虚さが切なさや痛みや悲しみまでもを飲み込んでしまったようだ。この虚無感を埋める手立ては見つけられそうもなかった。
 わざとらしいまでの騒がしい宴は、酔いつぶれたサズルの退席で幕を閉じた。