第五章 歪む笑顔 14
■5-3 明けぬ夜に消えゆく
アスベリアは用意された部屋で、擦り切れた毛織物に丸まりうずくまった。くしくも、そこは昔自分の部屋だった場所。弟妹と寝起きを共にしていたかつての自分の生活の場。そこにはまだ、見覚えのある傷だらけの机や、アスベリアが不注意で床に落とし、角を凹ませてしまった妹ナタシヤの宝石箱などがそのまま残されていた。ある日、唐突に時を止めたその部屋は、アスベリアをどう思いその扉を開いたのだろう。
驚いたことに、傷だらけの机の上には作りかけの花嫁の髪飾りがあった。小刀でサワロンの木を削り、神の祝福を願う時に使われるバラの花が丹念に彫られていた。その脇に置かれた小刀を手に取る。
「オレの小刀……、エル……」
姉思いの末の弟エルレイ。きっと、愛する姉の為にこれを作っていたんだろう。
――そうか、ナタシアもそんな歳になってたんだな。
十年という月日は、アスベリアには計り知れないほど早く過ぎ去ったのだ。
裕福を知らず満たされるものは何もなかった頃の思い出は、意外なほど多い。そのどれもが今の自分には一つも手にしていないぬくもりが残っていた。
家族を傷つけた、もうそれを埋める手段も贖罪の時もアスベリアには与えられない。
――オレが、すべて奪った!
鋭く丁寧に砥がれた小刀で、アスベリアは指を傷つけた。指先から盛り上がった血が、ぽとりと机の上に落ちる。その血の滲んだ先に、アスベリアはあるものを見つけた。
「兄さんは何も悪くない。悪いのはこの国なんだ」
アスベリアはその文字を読みあげる。机に彫りこまれた凹凸にアスベリアは指を這わせた。
「ばかやろう……」
――どいつもこいつも、オレを許すことばかり……。オレは、オレ自身は自分が許せない。
周りが許し優しくされるほど、アスベリアの罪は自分自身を傷つけた。
『これが、アスのしたかったこと?この村を出て、それで手にしたかったものなの?自分まで裏切るの?自由になれないの?』
――自由なんて何処にもない。手にしたものなど何もない。
裏切って手にはいるものに何の意味もない。
――オレは弱いから、みんなを、本当に大切な人たちを傷つけることしかできない。
それでも、今しかない!
アスベリアは音もなく立ち上がると、扉をそっと開けて辺りをうかがう。雨はまだ降り止まず、低いところにある頭上の屋根を容赦なく叩いている。雷鳴が轟き、時折辺りを眩しく照らし出した。酔いつぶれた兵士たちが、床に雑魚寝をしているのが見えた。男たちのいびきと雨音以外何も聞こえない。
足音を立てないように静かに部屋の外へと出た。サズルが寝泊りしているなら、この家で一番広い部屋、アスベリアの両親の寝室を使っているだろう。
アスベリアは両親の寝室の扉をゆっくりと引きながら開けた。扉から漏れ聞こえていたサズルのいびきが一段と大きくなる。アスベリアは一度背後を振り返り、兵士たちが起き出していないことを確認すると、するりとその中へと身体を滑り込ませる。
雷鳴がまた轟く。雷光で照らされた寝室はアスベリアの記憶の通りで、何も変わってはいなかった。父のオイルローブが、今でも部屋の隅に掛けられていた。使い古した木の椅子が、擦り切れた母の手作りのクッションを載せたまま、扉の脇に静かに置かれている。
アスベリアは手の中に納まってしまうほど小さい小刀を慎重に握りなおすと、サズルの横たわっている寝台へ一歩一歩忍び寄った。天幕を跳ね上げ、サズルの喉元に飛び掛った瞬間、アスベリアは脇腹に熱した鉄の棒を突っ込まれたような強い衝撃と痛みを感じた。
「ぐっ!」
よろめきながらアスベリアは思わず後ろに下がる。自分の脇腹から伝い落ちる生暖かいものが、ジワリと上着を濡らし溢れ出て床へと落ちた。
「ふん。よくやった……と褒めてやりたいところだが、ぬしが考えておったことなど、先刻承知。予測はできておったわ!」
「クソ!」
サズルはアスベリアの腹に突き立てた剣を抜くと、寝台の上に起き上がった。
「仲間を裏切り、国を捨ててまでわしの懐に入り込んだのは上出来であったが。しかし残念だったな」
「最初から捨てた命だ。当然、戦って生き延びてやるさ。あんたと同じでオレも、戦場でしか生きられないんでね」
一瞬サズルの口元に愉悦の笑みが浮かぶ。
「ならばここで死ね!」
サズルの剣は夜の闇の中で青白く燐光を放っていた。アスベリアは最初の一撃を身を引いて庇うと、床を転げるようにしながら青白い燐光から逃げた。
「そんな心もとない得物でわしの剣にかなうと思うか!」
アスベリアの手に握られた小刀が、雷光できらりと光る。
「ベルン。お前は所詮そこまでだ。弱い人間とは、自分の運命を操る術を知らん者のことをいう!己の技量を恥じるがいいわ!」
サズルは床を転げて逃げるアスベリアに挑発的な笑みを向けた。
――誘われてはいけない。相手の調子に巻き込まれたら終わりだ。周囲をよく見ろ。どんなてだれであっても、必ず隙は生まれる。
ノリスが剣の稽古をつけるとき、アスベリアによく言っていた言葉が脳裏をよぎる。冷静になれと自分に言い聞かせ隙を見つけようと動き回った。
サズルに刺された脇腹から流れ出す血のせいで眼が回る。
「おいおい、足元がおぼつかないぞ」
「だまれ!」
アスベリアはとっさに椅子の上にあったクッションを掴み、サズルの剣に振り下ろす。布の裂ける音がし、辺りに茶色い羽毛が飛び散った。
「こしゃくな!」
アスベリアは薄く透ける天幕を引きちぎり、サズルへと投げつける。剣に絡みついた天幕を力任せに引っ張り、アスベリアは渾身の力を込めてサズルの懐へ飛び込むと、その身体を寝台へと叩きつけた。
「オレは、まだ死ねない!」
「ぐおぁ!」
アスベリアはサズルともつれ合いながら、寝台から床に倒れこんだ。サズルの首から夥しい血が流れ出し、一瞬の痙攣の後その身体は力を失い床に伸びる。
アスベリアは肩で息をしながら、膝を突いて深呼吸をした。
「オレが弱い人間かどうか、あの世で見てるがいい」
小刀を振り上げ、サズルの胸に力任せに突き立てた。
サズルの剣は、主の手から離れても、まだ青白い燐光を放っていた。天幕のしたからそれを抜き取り、壁に掛かっていたオイルローブを掴んだ。
「何の物音だ!」
扉の向こうでは、騒ぎを聞きつけた兵士たちが、ようやく起き出してきた。兵士たちは何事かと大声をあげ、酔いつぶれて眠りこける仲間をたたき起こしている。
「仕方ない」
アスベリアは部屋の隅に倒れていた椅子を持ち上げると、それを窓に向かって投げつけた。目の前で、薄く張ったベールが落ちるかのように、その窓はくだけ散り激しい音を立てた。
痛む脇腹を押さえ、アスベリアは窓枠を掴んで外へと飛び出すと、雨に煙る夜の闇に消えていった。