第五章 歪む笑顔 15

 ぐっしょりと雨に濡れた上着が身体にまとわりつき、体温が急激に奪われてゆく。オイルローブを肩にかけていても容赦なく染み込んでくるほどの激しい雨が、アスベリアの身体に降り注いだ。どんなに身体をきつく抱きしめても、歯ががちがちと音を立てた。
 サズルに刺された脇腹が疼いて、眼がくらむ。
 ――これ以上血を失ったらまずい……。
 ぼんやりとそんなことを思いながらも、アスベリアにはどうすることもできなかった。

 ずいぶんと歩いてきたような気がするが、確信はない。激しく降り続く雨がアスベリアの身を隠し、追っ手はきっとアスベリアを見失ったはずだ。しかし、果たして自分がカリシアに向かっているのかわからなかった。
 地面さえも見えない闇。地に足が着いている感触も徐々に失われ、境界線は曖昧になってくる。懐に抱えた剣だけが青白く存在を誇示していた。
 倒れてはいけない。立ち止まっては……。
 ――カリシアに戻る。その目標はなんだ。考えろ、忘れるな!
「くそ!」
 アスベリアの足は自分の意思とは裏腹に、前に進むことをやめてしまう。
「止まるな!」
 顔が水溜りに沈んでゆく。声にならない憤り。自由の利かない身体。
「……死にたくない」
 消え失せようとする願い。
 ――降りしきる雨よ。このままやむことなく大地に注ぎ続けてくれ。無様なこの様を覆い隠してくれ。
 アスベリアはぼんやりと闇の向こうを見つめていた。見えるはずもないものが近づいてくる。そんな気配があった。
 ――とうとう、オレにも死神が迎えに来たか……。
 アスベリアは上半身を起こすと懐に抱いていた剣を取り出し、降りしきる雨に向かって突き上げる。
「……くるな」
 漆黒のマントをまとった人影。漆黒の馬に跨った死神。
 剣を突き上げた姿勢のまま、その手から剣が地に落ち、アスベリアの身体が傾く。水しぶきを上げ倒れこんだ。
 ――オレもここまでか。何もかも、ここで終わる。
 そう思うと、自然と笑みが浮かんできた。自分に対する嘲笑。自分の今までは、ルーヤの命は、何のために存在したのだろうか。
 不意にふっつりと、思考が途絶えた。アスベリアは動かない。
 漆黒のマントをまとった人影は、静かにアスベリアの横に膝をつくと、アスベリアを抱き起こし、どこかへと運んでいった。


 目を開けると、見覚えのある天井がぼんやりと見えた。その次に音がアスベリアの耳に届く。雨の音だ。あの世でも、似たような光景があるものだ。
 ――雨も降るのか……。
「気がついたか?」
 聞き覚えのある声。誰だったか。
「ペルノーズが探し出してくれたんだぞ。わかるか?」
 ――誰だ?
「よくやった、アスベリア。よく戻ってきたな」
 ――何のことだ……。
 アスベリアはゆっくりと首を傾け、声の聞こえてくるほうへと視線を移した。
 ベラス=ナズラ上将軍。
「……なぜ」
 そう言ったつもりだったが、声にはならなかった。
「まだ声が出ないだろう。いいんだ、ゆっくり休め。もう大丈夫だから」
 これは夢ではないのか。全身に痛みが走る。
 ――オレは生きてる?なぜだ、あの時死神の姿をオレは確かに見た。オレを迎えに来たはずではなかったのか。
 アスベリアは、口をパクパクさせて必死に聞きだそうとしたが、ベラスには伝わらなかった。ただ、よくやった、よく帰って来たと繰り返し、やがて医師を呼びに部屋を出て行ってしまった。
 それからの数日間は、寝台に寝かされ痛み止めの苦くて渋い薬湯を飲まされ、傷の手当をすることだけをしながら、ほとんどの時間を夢にまどろみながら過ごした。目が覚めると、傍らにはいつもベラスがチェス版を見つめて座っていた。
「もう安心でしょう。歳が若い分、治りも早い。ゆっくり養生されれば、歩けるようにもなりましょう」
 医師は、アスベリアの脇腹の傷を手当しながら安堵の息を漏らした。
「ここに戻られたときは、それは酷い有様でしたからなあ。覚えておられるか?うわごとの様に女性の名を口にされておられた」
「色男はこれだからいかん。堅物だとばかり思っておったが、こやつも隅にはおけんな」
「なあに、若いうちはそのほうがよいのです。ナズラ様もそうだったではございませんか」
 ベラスは面白そうに笑いながら医師と話をしている。
「ベラス将軍、どうして……、私はここにいるんですか」
 ベラスは口ひげを撫でながら目を細めた。
「何も覚えてはいないのか?」
「いえ、……一瞬、私は死神を見たのかと」
 アスベリアはばつが悪そうに口ごもった。気恥ずかしさに視線が泳いでしまう。
「ああ、それはペルノーズだ。やつが君を見つけて、ここまで連れて帰ってきたんだよ」
 アスベリアは口に含んだ薬湯を噴出しそうになった。
「なん……ですって?」
「シラーグ准将と君たち護衛騎士が、我々がここに戻ってから一週間たっても帰還しないことで、上がいろいろと紛糾(ふんきゅう)したんだよ。コドリスが執拗に君らを追っているのではないか、どこかに幽閉されたのではないかとね」
「しかし、我々の役目はコドリス軍の目を引きつけることでしたから、当然だったのではないですか?」
「紛糾したのはそこではないんだ。シラーグ准将は、王の従弟にあたられる。先王の第二王妃アスキス様の姉上ターニャ様の御子であられた。知ってるな?」
「ええ……」
「アスキス様は先王のご寵愛も厚く、聖王母アニス様が早くに急逝された後、長く宮廷内の権力を得ておられた方だ。そのアスキス様が、シラーグ准将のことをお知りになってな……」
 ベラスがそこでいったんため息をついた。
「アスキス様が国王軍を動かしてもシラーグ准将を探すようにと、王に威令されたのだ。国王軍を動かさなくても小隊を組織して、捜索部隊をおくることも出来たのだが、王はカリシアを守る国王軍を動かすことは出来ないとの一点張りで」
 アスベリアも思わずため息をついてしまう。王の敗走は、王自身の気弱さを呼びこの城に逃げ帰ったあとは、この城を強固に守り固めることを考えるので精一杯だった。すでにどこかで命を落としているかもしれない者のために、貴重な軍を差し向けることが勿体無いとでも思ったのだろう。