第五章 歪む笑顔 16

「それで、なぜノリスが?」
「我々もアスキス様のご心中を察して、小隊を出す事を王に進言したのだが、王は頑なにそれを拒まれた。そんな時、ノリスが王に食ってかかってなぁ……。あれは肝が冷えた」
 ベラスは苦笑しながら顎鬚をなでる。
 ――王は、腹心であった方を、生きておられるかも知れない方を見捨てるおつもりなのですか!王を命を賭して守ろうとされている方を失ってもよいとおっしゃるか!
「あれはなんといえばよいものか、根っからの熱血漢というか、情に厚い男だったから、みすみす君らを見捨てるのが耐えられなかったのだろうよ。我らの制止を振り切って、一人で飛び出していった。彼も、シンパ戦で足に大怪我を負ってまともに歩けるような状態ではなかったというのにな」
 アスベリアは、自分が雨の降りしきる闇の中で見た、黒い外套を着た死神の姿を思い出していた。夜の闇に紛れて行動するために、あのような姿をしていたのかと、今さらながら合点がいく。
「……ノリスは?そういえば姿を見ませんが」
「あれは、王に騎士の位を返上した」
「なんでっ!」
 アスベリアは言葉を失い、目を見開いた。ベラスはそんなアスベリアの姿を見て自嘲気味に笑った。
「愚かなことをしたと思うか?奴にはもう戦場に立つことが耐えられなくなっていたんだ。正直、私も奴を失うのは惜しい。あれほどの者が今後現れるかどうかと想像しても、望みは薄いように思う。だが、奴の心中を思うと……、あの戦場での嘆きようを見続けるのも辛い。
 国に失望し、心から命を懸けて仕える気持ちを失った者にとっては、ここは牢獄でしかないだろう」
 王に失望した、とは言わないベラスの心の内を感じ取ったアスベリアも、自然と自分の手元へと視線を落とした。ノリスは一度戦闘が始まると、まるで人の心を捨てた鬼、まさに戦鬼と化して剣を振るうが、それが終わればまるで我に返ったかのように、戦場の血の海に突っ伏し懺悔と自分への呪いの言葉を吐きながら泣き叫んでいた。
 ――あれは、剣を握るべきではなかったのかもしれんな。
 そんなノリスを見つめながら言っていたのは、ベラスだった。
 ノリスが怪我をしていたとは、気が付きもしなかった。王についてカリシアに戻ったのは怪我のせいで、あの時影武者を連れて逃げられるのは自分しかいなかったからだ。逆恨みも(はなは)だしい。
「お人よしだ……、あいつは」
 アスベリアは思わず呟いていた。
「まあ、奴は根っからそういう性分だ。
 ところでだな、アスベリア……」
 ベラスは表情を引き締めて改めてアスベリアに視線を向けた。
「君は一体何をした?国境付近まで南下していたコドリス軍が、突然引き返していったとの報告が入った。
 それに、君が持ち帰ったあの剣……。あれはどういうことだ?」
 ベラスの視線の先には、ベラスのガウリアン鋼で打たれた剣が、青白い光を発しながら台の上に置かれていた。
「あの剣には、コドリス王家の紋章が刻まれていた。あれをどこで手に入れた?」
 アスベリアの視線が一瞬彷徨った。喉の奥で詰まった言葉が、行き場を失い渦を巻く。ペルガ村のことは言えそうにない。しかし、アスベリアのその態度で、ベラスには何か伝わってしまったようだ。
「……何を見た、アスベリア。君が隠しても、いずれはどこからか噂は噴出する。その時に、君が関わっていたと知れれば、君自身にもことが及ぶんだぞ」
 アスベリアはベラスの穏やかな言葉を聞きながら、とっさの言い訳を口にしていた。
「逃げている途中、コドリス軍が野営をしているところに出くわしてしまったんです。ペルガの村人を人質にされ、抵抗することが出来ませんでした。私たちは捕虜になり、シラーグ准将は命を落とされました。私は隙を見て逃げ出し、コドリス軍の大将だったボルシェ=サズル将軍を殺して……、剣を奪って逃げてきました」
 ベラスは険しい表情でアスベリアの話しに耳を傾けている。アスベリアが薄いベールで包み込んだ嘘も、ベラスは見抜いたことだろう。ペルガがアスベリアの故郷だったということも、ベラスは思い出していたはずだ。しかし、ベラスはそこには触れずぐっと押さえた声で訊ねた。
「密告者はアイザナック=ラフィ少将……だな」
 アスベリアはベラスの瞳を見つめてただ頷いた。
「そうか……。奴は、他愛もない喧嘩に巻き込まれて、路地裏で死んだ。誰かからラフィのことを告げられても、驚いたフリをして哀悼の意を述べるように」
「よいのですか?真相を表に出さなくても」
「この期に及んでも、まだ我々には王に付き従う国民が必要なのだよ。大勢の村人を失うよりは、密告者が一人でも姿を消したほうがまだよい。この件は私がケリをつける。君は心配しなくてもいい」
 アスベリアはため息をついた。
「君の傷がどのようにして負われたものなのか、これでようやくわかったな」
「……は、まあ」
「なんだ気のない返事だな。あのボルシェ=サズルを倒しただと?ノリスならともかく、アスベリア……、君が?」
 ベラスの瞳に、ややいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「私の剣技の腕前をよくご存知のベラス将軍は、さぞ想像できないことでしょうが」
「うむ、驚いた!豪将、名将と名高いあのボルシェ=サズルをやるとは!コドリス軍が引き上げるわけだ。これでコドリスに一矢報いたことになるな」
 ベラスはやけに嬉しそうだ。アスベリアの肩を力を込めて叩く。身体に走る痛みに顔をしかめるアスベリアの事などお構いなしの様子だ。
「いや!頭は良いが度胸の足らない奴だと思っていたが、まさかボルシェ=サズルに剣を向けたとはな。私の目も節穴だな。
 このことは、私から王に報告しておく。ペルガの件は、私が何とかしてみよう。君はゆっくり休んで、早く身体を治しなさい」
 ベラスはそういうと、ボルシェ=サズルの剣を手に取り――さすがの細工物だ――と感嘆の声を上げ、傍らにあったテーブルクロスを剥いでそれに包むと部屋を出ていった。

 アスベリアはため息をつきながら、背中に当てられたクッションに身体をあずけた。なぜか、上司であるベラス将軍にあれほど褒められても、嬉しさは湧き上がってこなかった。焦燥感が身体を包み込み、重い空気がのしかかっているようだった。
 ――オレは、どうしたかったんだ……。上からの賛辞があれほど欲しかったんじゃないのか?認められたくて、必死に逃げ回ったんじゃなかったのか?
 そう自分に問いかけてみたが、返事はいっこうに返ってはこなかった。ただ、無性に虚しさがこみ上げてくるだけだ。
 その時だった。アスベリアの部屋のドアが拳で軽くノックされたかと思うと、それは静かに動いた。アスベリアは、部屋に滑り込むように入ってきた旅用の薄汚れたマントを見つめ、言葉を失った。
「もう起きていても大丈夫なのか?」
「……ノリス」
 少しためらいがちに戸口に立つ男に、アスベリアは憤りを感じた。本来ならば命を助けてもらった礼を言うべきだっただろうが、アスベリアにはその言葉は見つからず、変わりに非難と怒りが口をついて出る。
「あんたは馬鹿だ!どうして自分の地位を捨てたりした!」
 ――どれだけの人間が、あんたの地位と才能を得たいと羨んでいると思っている!
 努力をしても手にいれることはできないほどのものを、いとも簡単に手放せる?アスベリアは怒りを次々とぶつけた。身体の痛みは、ノリスの姿を見たとたんに吹き飛んでしまっていた。
「なんでオレを助けようなんてしたんだ!」
 アスベリアが寝台の上で拳を握り締め、脇に置かれたクッションに叩きつける姿を、ノリスはじっと見つめている。
「お前の命は無駄じゃない。誰にとっても、価値があるからだ」
「オレの命だと?陛下にとっても、この国にとっても、オレの価値は替え玉が利くもんだろう!そうじゃないのか。……だけど、お前は違う!ここに残れよ!お前はもう、オレだって……、戦場でしか生きられないんだから」
「お前だから、私は行ったんじゃない、アスベリア。誰も……、誰もが替えが利く存在じゃないのは、お前だってわかってるだろう?私の命は、私を必要としてくれる故郷の人たちのものだ。確かに私たちは、陛下にとって捨て駒の一つだ。だからといって、何のために人を傷つけなくてはならない。もう剣を握る理由がみつからないんだ」
 アスベリアにノリスは疲れきった表情でそう言い(かぶり)をふった。
欺瞞(ぎまん)だ!だからなんだっていうんだよ!あんたが剣を手放しても現実は何も変わりはしない。あんたはただ、自分の罪を許されたいと思っているだけじゃないか!」
 アスベリアは自分が抱える虚しさを吐露した。
 ――そうだ、オレは罪を犯した。誰にも許されない罪を!
「アスベリア、私たちは罪を償うために、生きていかなくてはいけないんだ。いくらそれが辛くても、これが私の贖罪の形だと思っている」
「……戦場で死ぬよりも、苦しみは増すんだ」
 アスベリアは唇をかみ締め、憎々しげに吐き捨てる。
「わかっている」
 ノリスはそう一言呟くと、静かに身を翻した。部屋を出ていく一瞬、ノリスのマントのすそから見えた杖が、ノリスの怪我の重症さを物語っていた。
「オレは……、お前に生かされたなんて、まっぴら御免だ!」
 ノリスがドアを閉める刹那、アスベリアは叫んだ。隙間から見えたノリスの寂しげな笑顔が、アスベリアの脳裏に焼きつく。
 ――それで、お前は満足か?
 その時、聞いたことのある声で誰かが呟いた。
 ――お前は、一度捨てられたんだぞ。お前の忠義心は、あの時(ないがし)ろにされた!王には伝わってなかった。お前の払った犠牲は、こんなことで露のように消えてなくなるのか?
 それはもう一人の自分の声。忘れるなとアスベリアを攻め立てる。ルーヤの傍らに立ち、こっちを見て怒鳴りつけた。
「誰もが、替え玉の利く存在じゃない」
 ノリスの先ほどの言葉が心に重く響いた。
 ――弱い者は、強い者の運命に巻き込まれるんだ!お前は弱い者のままでいるつもりか?立てよ!見せつけてやれ!お前は、唯一無二、お前自身の為に!
 アスベリアの瞳に、強い輝きが戻ってくる。そう、許してはいけない。自分を見捨てた国も王も、そして自分自身も。
 ――もう誰も、オレの邪魔はさせない。
 心が急にふくらみ満たされていくのをアスベリアは感じた。その充足感にアスベリアはしばし笑みを浮かべて、夢の中へと足を踏み入れた。