第五章 歪む笑顔 17

 外が白々と明るくなってきた。一晩中降り続いた雨が、朝の訪れと共に姿を消し、あたりは静まり返っている。
 太陽の光で温められた空気が、大地に染み込んだ雨水を蒸発させ、徐々に空へと登っていくのをじっと見つめていた。空へと帰ってゆく雨水は、魂の浄化の軌跡だろうか。アスベリアはふと、漂い風に吹かれ舞い上がる靄の姿に思いを馳せた。
 ――ルーヤも、あの時降った雨水と一緒に天に召されたのだろうか……。それとも、まだこの地に留まり、オレを見ているのだろうか。
「国境を越える前に、この馬車は捨てていくぞ」
 いつの間にか目を覚ましていた男が、アスベリアの横顔をじっと見つめながらそういった。
 国境を越える。それはコドリスとノベリアの国を分かつ、長く横たわるように連なるコドル山脈を抜けていくということだ。そして、己の運命もまた、引き返せない道を進むことになるということでもある。
 山脈の合間をぬうように進み、標高の低いところを選んで進んでいるのだが、さすがに朝は冷える。
「寒いな」
 アスベリアはそういうと、身を丸めてグラスに残っていた酒をあおった。
「ところで、オレの名は知られているんだろうが、オレはあんたの名前を知らない」
 馬車の明り取りの窓から差し込んできた光に、男の顔が浮かび上がってくる。昨晩松明の灯りに照らし出された男の顔は、恐ろしいまでの頑強で厳しい表情だったが、朝日に照らされた今の表情は、どこか柔和で思慮深さの感じられる顔をしていた。自分よりも幾分か年をとっているのではないかと思わせる。
「……セオール様の侍従、サルフェイ=スヴィテルだ」
 アスベリアの記憶に、その名前はあった。コドリス貴族スヴィテル家という冠を背負っている男。
「貴族が出張ってくるほど、コドリスは人材不足なのか?」
 サルフェイは自嘲気味に笑みを見せた。
「私は、自分の意思でセオール様のお側に仕えておるのだ。スヴィテル家とはすでに関係がない。血脈などで運命が定まるわけではあるまい。私はあの方に初めてお会いしたときから、あの方の為に命を賭してお守りすると決めたのだ」
 ――戦いに愛された姫に心酔する男。
 なるほど、セオールとはよほどの人物らしい。
「セオールは、どこにいるんだ」
 スヴィテルは短いため息をつくと、懐から取り出した見事な金細工の紋章を見つめた。
「セオール様は陛下のご寵愛を受けておられるが、それが仇となった。王都ベガンダスから最も離れた森と山ばかりの土地に追いやられ、そこに身を寄せておられる。いくら陛下の為と手柄を立てられても、兄上たちに疎まれてみえては、ベガンダスに帰ることもできない」
「……その話しなら聞いたことがある。次代の王座を巡り、暗殺未遂事件が起きたと」
「そうか、ノベリアにも周知か」
 アスベリアはコドリスから聞こえてきた、隣国のお家騒動を耳にしたことがあった。コドリス国王バルナバ=ジェスタルは、血脈よりも実績を重んじることで知られ、自分の子供たちにもそれを課していた。セオールは街娘の母から生まれ、本来ならば王位継承権すら得られない身分だった。それを王の腹心だった宰相ネイド=ファルドの後ろ盾を得ることで王宮に上がり、幼少の頃から英才教育を施され、類まれなる才能を発揮した。
「戦いに愛された不遇の姫君」
 アスベリアのその言葉にもスヴィテルは苦笑する。
「戦いに愛されたというのは容易いが、そう周知させるほどの努力をあの方は人知れず積んでおられたのだ。剣技など、お前の比ではないぞ」
「ああ、そうかよ」
 アスベリアは思わずぼやく。そもそも、アスベリアは剣術が苦手なほうだ。
 セオールは、王の寵愛を一身に受け、生まれながらにして正当な王位継承権を持つ兄たちの反感を買うことになった。バルナバ=ジェスタルはこう言ったという。
 ――余の後がまを得たければ、兄弟であれ蹴落してみせよ、と。
 それが引き金になったかどうかはわからないが、ベガンダスで開かれた王族の集まる晩餐会でセオールは命を狙われ襲われた。
「人の価値は、身分の優劣で決まるものではない。能力の優劣よりも血統か?」
 スヴィテルは真剣なまなざしでアスベリアをじっと見つめた。
「さあな、もともとあんたは貴族出身だから、そんな悠長なことがいえるのかもしれんとは思うがな。生まれながらに地位も高貴な血統も持たない人間からしたら、欲しいものを得ようとするなら、己を磨くしか方法はないんだよ」
 地位などというものは、つまらない見栄だ。そんなことはわかっている。自分の居場所を得るためには、どうしても諍って戦うしかないのだから。

 山脈を越えてゆく。馬車を捨て、馬の背に揺られて肌寒い山中を行く。山頂を越えるとき、アスベリアは眼下に広がる景色に思わず感嘆の声を上げた。しばし馬の足を止め、その眺望を胸に焼き付けようと見つめる。
 広大な山林の向こう、白く煙る緑の大地、これが自分が今までいた世界だ。
 ――これは、玉座から見下ろすこの世の全てだ。オレが欲した世界。
 これは自分のものだ。これからこの手に掴み取るものなのだと、アスベリアは山頂から見渡す大地をしばし堪能した。

第五章 歪む笑顔 END
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