第六章 求める想いの行方 3

 辺りを包んだ濃い霧は、しばらく消えることはないようだった。周囲は薄暗く、ラルフとシェシルの前を歩いているインサの背中も白く霞んでしまっていた。しかし、遠くの方で小さな灯りがいくつも揺れているのはなんとなく見える。
「あの辺りが、さっきの巨人の立ってた辺かな」
「ん、まあ、多分そうだろう。橋の脇に灯りが灯されたんじゃないか?この霧のせいで、橋や湖の淵から落ちる旅人が多いそうだから」
 ――お前も間違って落ちたりするなよ――とシェシルは苦笑交じりに呟くと、ラルフの背中を軽く押して湖の淵から離れ、城へと続く道を進み始めた。

 石造りの堅牢な橋げたが見えてきた。幅は想像していたよりも狭く、岸には黒い鎧を身につけ槍を手に立つ兵士たちが、行き交う旅人たちに鋭い視線を投げかけている。旅人たちは、一様に兵士たちと目を合わせようとせず、皆早くここを通り過ぎたいというかのように前方を見つめていた。
 ラルフたちも黙ってその列に加わり、ゆっくりと兵士たちの前を通り過ぎた。ラルフは周囲の人間に自分の跳ね上がり激しく胸を打つ鼓動が聞こえているのではと、思わず握った拳を胸に当て、息をつめる。
「おい、そこの……」
 がちゃりと金属音が鋭くラルフの胸を突き刺すように辺りに響いた。傍らを歩いていたシェシルの手が、すばやくマントの中の長剣の柄に伸びたのを感じる。ラルフの体が硬直し歩みが止まりそうになった。
「そのまま歩け」
 シェシルの低い囁きがラルフの背中を押した。
「おい!そこの物乞いの小僧!」
 兵士はラルフの前を歩くインサの襟首をぐいっと掴み、城へと向かう人々の列から引きずり出した。思わずラルフは顔を上げ、シェシルの横顔を仰ぎ見る。黒いマントの人の列の中、擦り切れ汚れきったマントをかぶったインサの姿はやけに目立っていた。インサは兵士の腕に拘束され、身をよじって抵抗している。
「なんだよ!放せよ!」
 突如起こった騒ぎに、周囲の人々も歩みを止め整然と並んでいた列に乱れが生まれた。
「姐さん!置いてかないでくれよ!おれは何もしてねえよ」
 何もしていないと騒ぐこと事態、何かを犯した者の逃げ口上に聞こえる。シェシルは諦めたようにため息をつくと、ラルフにしか聞こえないような小声でぼそりと呟いた。
「……ラルフ、お前はこの列にしたがって一人で城下に入れ。私は後から追うから。城に入ったら、鍛冶屋のシェルグという爺さんを探せ。気をつけろよ」
 シェシルはふいっと何気なさを装いながら列から離れ、槍を構えたままインサの襟を掴んでいる兵士の方へと歩いていった。再び人々の列は動き始める。ラルフは二人が気になったが、そちらの方には目を向けないよう意識して足元を見つめ、黒いマントを着た人々に押し流されるように歩みを進めた。
 白くひんやりとした空気を頬に受けながら、ラルフは一歩一歩進むたびに孤独に締め付けられてゆく胸を、ぐっと歯を食いしばって耐えた。
「それにしてもな……」
 不意に前を歩く旅人が口を開いた。大きな黒塗りの馬車の後を歩きながら着いて行く付き人らしかった。その付き人二人が懐の水の入った袋の口を緩めながら話をしている。
「エイリア=ナーテ様が急にお亡くなりになられたなんて、一体何があったんだ?」
「さてなあ、我らには到底はかりしれんが……。父君のクレテ公は、ご心痛のあまり床に臥せっておられるとか」
「ザムラス陛下も王都から葬儀に参列されるために都を発たれたそうだ。大事になったもんだよ」
 付き人たちはひそひそと噂話をしながらも、城門の手前まで辿り着くと今日の宿屋の夕飯の話題を持ち出し、エイリア=ナーテの死に関する情報はそこで途絶えてしまった。
 ラルフにとっては、その橋の長さが数時間にも思えた距離だったが、実際は数分であったろう。この国の要人が一人死んで、国中が喪に居ていることだけは確かで、門番をしている多くの兵士たちもまた、一様に暗く重苦しい雰囲気を漂わせ、厳しく強張った表情で城門をくぐり行く旅人たちの列を見送っていた。
 ラルフはその頭上に荘厳とそびえる城門を見上げた。天をついて(そび)える物見の塔が深い霧にその姿を包まれ、巨石で築かれた堅牢な城壁が長い時を見つめてきたものだけが持ちえる重厚さで、そこに存在した。ラルフはシェシルたちとはぐれたことからくる焦燥感とはまた違った、四方から押し潰されるような恐怖のようなものを感じとっていた。
 名工たちの手によって見事な彫刻をほどされた壮麗な門に、しばし目を奪われたが、ラルフは人の波に押されるようにそれを通り過ぎ、ついにノベリアの第二都市オルバーへと足を踏み入れた。

 街の中はひやりとした霧が漂う灰色の風景だった。皆一様に黒いフードを頭から目深にかぶり、話し声も密やかにしか聞こえない。城門脇に並ぶ店も、全て入り口に黒い布が下がり店内の明かりはほとんどついていなかった。
 ラルフは家々の軒下に下がる店の看板を一つ一つ見ながら、商店街を奥へと進んでいく。
 大人が二人やっと肩を並べて歩けるほどしか幅のない道は緩やかに歪曲し、磨り減った石畳が斜めに下ったり登ったりしている。街は想像以上に入り組み、石作りの建物はまるで箱を乱雑に積み上げたように規則性が無い。
「……鍛冶屋、……シェルグ」
 ラルフは思わず呟いたが、それらしい店の看板を見つけることもなく、人通りの淋しいひっそりと静まり返った袋小路に出てしまった。
「この通りじゃないのかな」
 踵を返して再び来た道を戻ろうとした時、袋小路の端の店内から物音が聞こえた。看板は出ていなかったが、入り口に酒樽が積みあがっているのを見ると、そこは酒場か宿屋のようだ。入り口にかけられた黒い布の隙間から、ランプの明かりがちらりと揺れているのが見える。ラルフは意を決してその店の入り口へと続く階段を下り、ドアを叩いてみた。
 何度か叩いていると、中で重く響く足音と椅子を引きずる音が聞こえ、中で揺れていたオレンジ色の灯りがラルフの立つドアに近づいてきた。
「なんだ、しばらくは閉店だよ」
 ドアを開けながら不機嫌そうな表情の男がのっそりと出てきた。ラルフと同じような背丈のずんぐりした男は、グレーの口ひげを顎の下で三つ編みにしていた。ラルフの姿を見て周囲を見回すと、男は舌打ちしてドアを閉めようとする。ラルフは慌ててドアの端を掴んだ。
「人を探してるんです!」
 ラルフの声が反響するように袋小路に響いた。
「お前の親なんて、オレは知らん。ここはお前のようなガキの来るところじゃねえ。帰んな、坊主」
「違うんです。鍛冶屋の……、シェルグさんというおじいさんを探してて、そこで、あの……」
 男の表情が怪訝に曇った。ラルフは言いよどむ。シェシルと待ち合わせしていることを言ってもいいものなのか判断できなかったのだ。
「シェルグのじいさんだぁ?」
 男のその言いように、ラルフは何か知っていると感じ取った。