第六章 求める想いの行方 5

 シェルグ老が鞴を踏んで、鍛冶火窪(ほくぼ)に風が送り込まれる音。台の上で真っ赤に焼けた金属を金鎚で打ち鍛える甲高い破裂音だけが、天井の広い部屋の空間に満ちている。その都度飛び散る火花が炎の妖精の羽ばたきのように見えた。刃には、それぞれ硬さの違う金属を重ね、硬さと柔らかさをバランスよく加えるのだそうだ。その為、刃を研くと独特の積層模様が波のように浮かび上がってくる。
 ラルフは老人の傍らで、じっとその様子を見つめていた。
「……ん?やっと来おったか」
 鍛冶火窪の脇にあった水桶の中に、赤く焼けた刃を入れると、もうもうと激しい勢いで水蒸気が上がった。その熱気を帯びた水蒸気を手で払うと、シェルグ老は部屋の奥の扉の方へと向かった。
 そこは、ラルフが入ってきた入り口とは反対側だったが、確かに扉を叩く音が聞こえた。ラルフも思わず扉に駆け寄る。
「シェルグ、私だ」
 扉の向こうから、間違いなくシェシルの声が漏れ聞こえた。それでもシェルグ老は小窓を開けてその向こうを確かめ、閂を外して扉を開ける。
「なんだ、外はまた雨か」
 フードから水を滴らせ、ぐっしょりと足元まで濡れそぼったシェシルが部屋に入ってくる。後ろからインサが仏頂面で着いてくると、扉が閉められた途端、頭を覆っていたフードを乱暴に剥いで大声をあげた。
「ラルフ!ここまで来るのにお前どうやって来たんだ?」
「どうやってって、別に袋小路の脇の小道を進んだらたどり着いたけど?」
 その言葉を聞いたインサは、大袈裟なほど大きなため息を吐いて、背負っていた荷物を床に置いた。荷物もぐっしょりと濡れており、床にも水滴が飛び散るほどだ。よほど荷物が重かったのだろう。インサはその場にぺたりとへたり込んでしまった。
「やっぱりな。簡単にたどり着ける方法があったんじゃねえか、姐さん!水路の中歩いたり、絶対道じゃないようなせまっくるしい塀の上行ったり、そんな必要なかったんじゃねえかよ!」
 ――知った場所なのに、迷ったんだ。
 ラルフは相変わらずなシェシルに苦笑した。シェルグ老は二人に乾いた布を差し出し、インサの頭を撫でる。
「まぁ、それも道ってことだ、坊主。結果としてはちゃんとたどり着いただろうが」
「ちゃんと、じゃねえけどな」
 その一言で、インサが大変な思いをしてシェシルに着いてきたことが容易に計り知れる。全身ずぶ濡れなのも、雨のせいではなくて、きっと水路を歩いたからだろう。
「ラルフ、オルバーの城主の息子、ナーテ公が襲撃にあって殺されたらしいぞ」
 シェシルはマントを脱いで壁にかけると、腰の長剣をベルトから外しながら何気ない様子でそう言った。ラルフははじかれたように顔を上げ、シェシルの顔をまじまじと見つめる。シェシルの視線の動きだけで、ラルフはその事の顛末を理解した。
 ――あの山賊……。目的はナーテ公の襲撃?
 すぐにその考えを振り払い、ラルフはあの晩盗み聞きした山賊風情の男たちの会話を思い出していた。
 ――でも、あいつらはジェイを狙っていたんじゃなかったのか?だったら、ジェイは今どこに?
「国王も葬儀に参列するためにオルバーに向かっているそうだ。街は相当厳しく取り締まられている。お前も気をつけろよ」
「……、うん。でもシェシル!」
 ラルフは言いかけた言葉を飲み込んだ。シェシルの鋭い視線が飛んできたからだ。ラルフはシェシルから視線を逸らし、再びテーブル脇の椅子に腰を下ろして自分の両の手のひらをじっと見つめた。
 ――ジェイは……、このオルバーにいる。
 それはラルフの心が確信として訴えている。何故だか説明はつかなかったが、この街に入る前から、あの天に向かってそそり立つ尖塔を始めて見たときから、ラルフにはそう感じられたのだ。
 ――シェシルは、どうしてあの時……、山賊が軍を襲ったあの時、止めたりしたんだろう。もしかしたら混乱に乗じてジェイを見つけ出して一緒に逃げられたかもしれないのに。
 しかし、そう思えば思うほど、ラルフはその可能性は無に等しかったのではないかと、自信を固めつつある。
 ――まだ、オレには何か足らない。強さか……。シェシルが認めるほどの強ささえあれば、ジェイを助けに行けたのか。
 ラルフは一瞬、このままずっとジェイに会えないのではないかという恐れを感じた。自分が突き動かされている想いが揺らぐ。自分が抱く信念が崩壊しそうになる。しかし、己の身の内の何か空白の部分がそう感じさせるのだと、まだ気がつけないでいた。それは幼さからくるがゆえか、未断ゆえかは、誰に問いただそうとも答えられるはずもなかったのだった。

 シェシルは、ラルフの寝顔を眺めその深い呼吸をじっと聞きながら、シェルグの煎れてくれたお茶を口に運んでいた。時折、暖炉の中の薪がぱちぱちと爆ぜると、シェシルの双眸が星のきらめきのように輝くのだった。
「今日はやけに冷えるな。もうすぐ夏だというが、今年はこのままだと不作になるかもしれん」
 シェルグは、暖炉の脇の小さな釜から発酵生地を焼いた香ばしいパンを取り出し、甘蔓の汁を煮詰めたシロップと一緒にシェシルの前に置く。少し飴色のそれは、遠くツロの砂漠の地に実をつけるロランジュの種を漬け込み、さわやかな香りをうつしている。
「オルバーの霧がいつにも増して濃い気がしてな」
 シェシルはシェルグが差し出した小刀でパンを割ると、それをシロップにつけて口に運んだ。
「……何か異変を感じるのか?」
「いや、今は何も」
「そうか」
 シェシルは呟くように相槌を打つと、ふっと口元を緩めた。
「シェルグのパンは、いつ食べても旨いな。だから、ここに来たくなる」
 甘蔓のシロップもシェルグの手製だということをシェシルは知っている。作り置きがあるときは、それを分けてもらっているのだ。
「わしに金も落とさんと、飯ばかり食いに来おって。……次はないかもしれんぞ、よく味わって食えよ」
「それは、爺の寿命が尽きるからか?」
「ぬかせ、お前が死ぬかもしれんからだ」
 シェシルは笑う。いつもの会話のようでいて、今日は少し違っていた。シェシルの笑顔を見つめながらシェルグの表情が曇る。
「どういうつもりかしらんが、死を覚悟するにはまだ早すぎはせんか」
 ――悪魔の瞳を見れば、死神だって逃げ出すだろうよ。同属だって言って酒盛りしてやってもいいぞ。
 いつものシェシルならそう言うはずだった。しかし、今のシェシルはただ笑うだけ。その顔は、ラルフを見つめる表情は、覚悟を得たもののそれに違いないとシェルグは感じたのだ。
「いつも、どこかで漠然と、私は戦場で死ぬんだと思っていたんだ。ただ、戦場で死ぬだけだと。それで終わる。でも、それは覚悟じゃなかった」
 シェシルの指がラルフの長剣のブルーペクトライトをスッとなでる。
「流されていた……、とでも言うべきかな。諦めとでも言うのか。いつの間にか、生きるために人を殺すだけの自分に気がついて、私は始めて自分から死にたいと思ったんだ。
 ただ奪うだけの自分に、衝動だけで生きている自分に愕然とした。自分が生み出した人の憎しみはこの身で受け止める。それしか報いることができないんじゃないか」
 己の内に渦巻く心の影を言葉という形に表すのに、シェシルは慣れていない。ひとつひとつ選びながら口から吐き出す言葉は、だからより真実味があった。
「そう思うと、どうしても剣が握れなくて。それに恥じる思いもあった。だけど、戦場にいない自分は居場所がないのも同然だってわかってしまったんだよ」
 ――こんな悲しい笑顔を見せる奴じゃなかったのに。
 シェルグは短く息を吐く。若さゆえの勢い、傍若無人さがそぎ落とされ、夢から醒めて現実を知り、己の信の姿を見てしまった。消え去らないと思っていた憎しみは、いつの間にか昇華され、土台を失って揺らいでいる。
「お前が生み出した憎しみ……、刃を向けられれば甘んじて受けるつもりか?」
 シェシルは少し眼を閉じて、言葉を捜しているようだった。再び双眸が開かれた時、そこには黄金に輝く覚悟が現れていた。その眼は部屋の隅で眠るラルフを映している。
「今はできない。出会ってしまったんだ、守るべき者に。
 ばかばかしい話だが、死に場所を求めてテルテオに向かってた。この瞳の色も、この姿もさらけ出して、道中、誰かがこの姿を見て憎しみを果たそうと向かってくるなら、その場で死ぬのもいい。だけど、私は、無事にテルテオまでたどり着いてしまった」
 シェシルの自嘲気味の笑み。彷徨いの森に足を踏み入れた時の、絶望と焦燥を思い出していた。ひと目見るだけでもいいと、そう思い向かったテルテオだった。でもいざ見慣れた村の入り口へと続く小道を見つけたとき、足がすくんで動けなくなったのだ。
「会える訳がないじゃないか。あそこは、私がいた世界とはまるで違う生活を送る人たちが住んでいるんだ。穢れを持ち込んじゃいけない。私の生き様を誇れるとはとても思えない。無性に怖くなって、私は逃げ出してしまった」
 ――驚いた……。怖くて会えないだと?このシェシーが?
 シェルグの動揺が伝わったのか、シェシルは無理に笑顔を向けてパンを千切り口に運んだ。しばらくの沈黙、シェルグは言葉なく、ただシェシルの横顔を見つめた。
 ――それでも、お前は生きてる。
 目の前のパンを平らげ、机の上に散らばったパン屑を払い落とした後、シェシルは両手をその机の上に組んで項垂れた。
「また、間に合わなかったんだ、私は」
 そして、喉の奥から搾り出すように、苦しげに一言そう言った。
「……そうか、あの小僧はテルテオの生き残りか」
 シェルグは眠るラルフに視線をやり、シェシルは微かに頷く。テルテオが国に対し反逆を企てた罪で粛清されたと、噂に聞いていた。シェルグはことの真意はともかく、村一つ潰す裏には何かある。自分の故郷ルシオンテのように。そう考えていた。
「あれに、孤独を……。自分が生きていることさえ憎いと思わせるほどの絶望を与えたのは私だ。あそこに私がいたなら、もしかしたら!」
「お前が村にいたところで、どうにかなったとでも思っているのか!」
 思わずシェルグはシェシルの手を握り締め、苦しみに歪む顔を覗き込む。その表情は、幼かった頃のシェシルの面影を滲ませていた。転んで膝を擦りむき、強情に痛みに耐えて唇をかみ締め、泣くまいと精一杯虚勢を張っていたあの頃のままのようだ。
「あれとお前は同じじゃない!小僧に自分を重ねるな!それで守ってやると?それこそお前の(おご)りだぞ!……と、今さら言っても無駄か。十分巻き込まれとるしなあ」
 シェルグはシェシルの手を強く握り締めたまま、やれやれとため息をついた。
 ――それで、シェシーが生きていられるのなら、わしは小僧に感謝すべきかもしれんな。
「好きなように生きるがいいさ。(せん)ずるところ、他人が干渉しようが、何を選ぼうが、決めるのはお前自身だ。小僧に自分とは違う生き方を教えてやれ。それが大人の務めってもんだろうが。今までの己を恥じてるんなら、なお更な」
 シェシルはこくりと頷き、小さな声で、まるで子供の声のように少し逆上(うわず)った甲高い声で呟いた。
「ありがとう、シェルグ。聞いてくれて……」
「お前を叱るのは、わしの役目だからな」
 シェシルは苦笑しながら立ち上がった。
「ちょっと、外の空気を吸ってくる」
 そう言って、壁にかけてあった黒いオイルコートを肩に掛けると、シェシルは階段を上がって外に出て行った。