第六章 求める想いの行方 7

 そうでなくとも、サンダバトナでの駐留時も、アスベリアと同じ馬車に乗っている間も、ジェフティはほとんど食事を口にしていないのだ。
「そんなことでは、少年と再会できても一緒に逃げられませんぞ」
 エドはわざと明るい口調を作って、ジェフティを励ました。ラルフという少年の話をする時だけは、少女の眼はその年頃の子供の輝きで笑顔を見せてくれるからだ。
 しかし、今日のジェフティは違っていた。唇をかみ締め、手かせのはまった両手を窓の外に出し、小さく悲鳴を上げたのだ。
「どうされましたか!」
 エドは慌てて窓に駆け寄り、身を乗り出して今にも窓枠から落ちそうになっているジェフティを抱きかかえた。
「そんなに身を乗り出されては危険です!」
「…………落としてしまった」
「今、なんと?」
 エドの腕の中で、ジェフティは歯ががちがちと鳴るほど震えている。そのただ事ではない少女の怯えように、エドは狼狽した。
「星を……、落としてしまったのです」
 エドは深い皺を刻んだ大きな手で、ジェフティの真っ白な小さな手を包みこむ。その手の氷のような冷たさに、エドの背筋にも寒気が走った。
 ジェフティは双眸に涙をためて、零れるのを我慢するかのように身を硬くする。
「小さな星なら仕方ございませんよ。全てが受け止められるわけないではございませんか」
 エドはジェフティの手を両手で包み力強く握る。
 しかし、ジェフティは大きくいやいやをするように頭を振ると、切なげに天を仰いだ。先ほどまで頭上にあった二つの月は沈み、深夜の帳が広がっている。今日は珍しく雨雲一つない、満天に輝く星空だった。
「違うんです。とても大きな星。……どうしよう、災厄が起きてしまう」
 エドは思わず空を見上げた。エドにはまだ、ジェフティの言う災いの星というものは見えなかった。しかし、何度も星を受け止めるしぐさを繰り返すジェフティを見ていると、本当に無数の星が降ってきているのだと信じることができたのだ。その時に、身に受ける痛みまでも、小さな身体で受け止めようとする姿に胸が痛んだ。
「姫のせいではありませんよ」
「いいえ」
 ジェフティは驚くほどきっぱりとそういう。
「あなたにも、災厄が降りかかるかもしれないもの。沢山の人が犠牲になったら?ラルフが巻き込まれちゃったら……、私、どうしたら」
 エドは苦笑した。
 ――一人の少女に災厄を背負わせるほど、神とはおろかな存在なのか。
 そんなものは、すでに神とはいわない。それこそ人の傲というものだ。皆、自分の身の可愛さゆえに、他人に不を押し付けたがる。それと何も違わないではないか。
「他人の運命までも、あなたが肩代わりすることはないんです。人の犠牲があっての平穏など、本物ではない。そうは思いませんか?
 それがもし起こっても、その時は私の運命なのだと受け止めます。もし誰かが小石につまずいても、それがあなたのせいだと誰が批難しますか?痛みがなければ人生とはいわない。これは歳を取った者しかわからないことでしょうが。ならばこそ、今を愛おしいと思えるのですよ。
 姫がそれで臥せっておられるなら、どうかお気になさらず。私なら大丈夫です。あなたのそばで、少年が迎えに来るまでお守りいたします」
 ジェフティはかすかに笑みを浮かべた。涙が一筋頬を流れ落ち、エドの手の甲にぽとりと落ちる。
「約束して」
 エドの首に両腕を回して、ジェフティは抱きついた。
「私は死んだりしませんから、姫」
「私の為に、死んだりしないで。お願い」
「ええ、わかっています」
 エドはそう言いながら、心の中ではジェフティの身に何かあったときは戦うことを誓っていた。腰に提げ持った長剣が、何よりの証拠だ。再びこの身に剣を帯びることは、エドが自ら決めたこと。
 ――愛しい命を守りたい。
 ただ、自分の純粋な思いのままに。
 ――失ってはいけない。辛い想いはもうたくさんだ。妻子を死なせてしまった罰はこの身に受けて、それでも生きてゆける。足を失い義足の激痛に耐え、その痛みも神が与えたもうた罰なのだと受け入れてきた。しかし……、この少女に、そんな罪はないはずだ!人の命を奪ったわけでもない。見知らぬものの災厄までも、この小さな身体に押し付けるなど。やめてくれ!
 お願いだ!誰がこの子を救ってくれるというのだ。今は、私しかいない。少年が現れるまで、それまでは……。
「お願い、死なないで」
 ジェフティの手はぎゅうっとエドのマントを掴む。なんと頼りなげな力だろうか。
 エドは、胸の中で泣きながら「死なないで」と繰り返し呟くジェフティを抱き上げると、窓から見えるオルバ湖の、鏡のように静まり返った水面を見つめた。
 
 この世の生を受けた全ての者が、寿(ことほ)がれて生まれてくるのだ。名を与えられ祝福を受けて、皆が生を受ける。それを互いに思えば、この湖の湖面のように心穏やかならば、誰も傷つくことはないのではなかろうか。いや、それも空論的な理想であるとはわかっている。
 それでも、少女が悲しみに涙することはない、もう一つの世界であったかもしれない。
 しかし、一点の雫がこの鏡面のような水面に落ちただけで、微かな風が渡っただけで、(さざなみ)は立ち、岸に向かって大きな波となる。物事の起こりはきっと些細なもので、だが、それは食い止めようもないほど、周囲はざわめき罪は水面下でも渦巻いているのだった。

第六章 求める想いの行方 END
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